畳べりとは、和室等に敷かれている畳の、長手方向に付けられた布のことです。
その役割には、畳表の角の摩擦を防ぐため、
畳を敷き合わせる際にできやすい隙間を埋めるためなど、
いろいろあります。
昔は、身分の高い人しか畳は使うことができず、
そこに付けられている畳べりも、模様や色によって
身分等を表していた時代もありました。
畳べりの素材も、以前は、蝋(ロウ)引きし、
ブラシで磨き上げられた綿糸や麻糸が使われ、
色も黒や茶などのものが中心でした。
現在では化学繊維で織られたものが主流となり、
耐久性にも優れ、軽くて丈夫、光沢を放つ美しい色・柄の豊富な織物として、
ハンドメイドの素材としても使われています。
岡山県倉敷市児島は、繊維の街と呼ばれていますが、
その繊維の種類は多岐にわたります。
今はデニム・帆布・畳べり・真田紐など。
それに加えて、学生服や作業服、ジーンズの縫製も盛んです。
それだけ多岐にわたっているのには、綿産業での長い歴史があるからです。
明治15年に日本で民間初の紡績所「下村紡績所」が創設され、
児島にとって繊維産業は、さらに大きな存在となります。
ヨーロッパから動力ミシンが輸入され、綿製品の大量生産が可能になり、
その当時の人々に欠かせない「足袋」生産は、日本一になりました。
第一次大戦後は、洋装が一般化していく中で、
学生服の生産にいち早く切り替え、
今、児島は学生服の街としても知られています。
このように児島は、常に時代や文化の流れに敏感に対応し、
数々の方向転換で木綿織物業を守ってきた経緯があります。
畳べりも、約百年前、時代が綿糸や麻糸の畳べりから、
艶糸を使った「光輝畳縁」に変革したとき、
児島はそれをいち早く取り入れました。
なぜすぐに時代を読み、それに対応できたのか。
畳べりは、幅約8㎝の細幅織物です。
それに対応する織機と技術があったからです。
今でも畳べりは、児島の中でも、真田紐を代表とする細幅織物の地域、
田の口・唐琴といったエリアに、集中して工場があります。
デニム・帆布といった広幅織物とは、実はエリアが見事に分かれています。
織物の幅によって生産エリアが分かれているのは、
昔からの産業として今に引き継がれているからこそ。
その先見の明は、数年後すぐにわかることが起こります。
1923(大正12)年、関東大震災が起こりました。
それを契機として、畳べりの需要が飛躍的に伸びたのです。
今では児島は、全国シェア約8割の生産量を誇っています。
最近の日本の住宅事情ですが、純和風建築は減り、
以前のように畳も畳べりも、身近なものではなくなってきました。
ですが、児島の畳べりは、「現状を常とせず新しきを織る」を信条に、
建築資材の枠を超えて、今も発展し続けています。
その一つが、「伝統とのコラボレーション」。
日本の民族衣装に畳べりを使うことで、
衰退している着物業界に新素材を提案し、
畳べり業界にも新しい使いかたを提案しています。
それが「児島帯」です。
なぜ畳べりを民族衣装にしたのか?
最近、着物で観光地巡りをしたり、古い着物をオリジナルに着こなし、
和風ファッションを楽しむかたが、増えているように感じます。
機能的で手軽に着られる洋服とは違い、
着るのにも振る舞いにもひと手間かかる着物。
ですがその手間の中に、長い歴史と文化を感じるからこそ、
私たちはどこかで着物をリスペクトし、
着てみたいという憧れを持つのだと思います。
きっと、これからの人々も、
どんなに時代が変わっても、
伝統へのリスペクトは忘れないでしょう。
「畳べり」と「民族衣装」。
二つとも、素晴らしい伝統です。
この二つがコラボレーションすることは、まさに必然と言えます。
そして今、地方創生が叫ばれています。
日本を地方から元気にしよう。
地域経済を活性化しよう。
「児島帯」はまさに、そのひとつと言えます。
これから児島帯が、
岡山の新たな名品になっていくでしょう。
畳べりが現在の素材で作られるようになって、約百年。
次の百年後のために、私たちは何を残せるか。
一人ひとりが考える時代になっています。